●5号室 桜色の思い出
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

僕の家の近くに咲いている桜の木が、もうすぐ伐採される事になった。
いつ植えられたのかも分からないくらい大きな桜は、一年を通して僕達を静かに
見下ろしてくれていた。それだけに伐採の知らせは残念であり、悲しくもあった。
近所のおばさん達からも随分反対の声が上がったけれど、そこの土地の持ち主が新しい 
家を建てるとかで結局くつがえらなかった。ならばせめて、何らかの形でこの素晴らしい
桜を残しておきたいと思った。
3月下旬の温かい日。桜は薄ピンクの可憐な 花を、その大きな腕いっぱいに抱えこんだ。
時折吹く春の匂いを乗せた爽やかな風が、 おまけだといわんばかりに僕の座っている
ところにまで花びらを運んでくる。僕は思いきり息を吸いこんでから、真っ白な
キャンバスの上に鉛筆を走らせる。 何らかの 形で……そう思った時、迷わず
こうする事に決めていた。消え行くものを写真やビデオに撮っておくのは簡単だ。
でも僕は、絵に描いて残す方法を選んだ。今まで僕達を見守ってくれていてありがとうと
いう気持ちを、筆を使って現したかった。
描き始めてからしばらくすると、背後に人の気配がした。振り返ると、そこには
ピンクのワンピースを着た女の子がいた。大きな二つの瞳が、不思議そうに僕を
 見上げている。隣の家の、あーちゃんだ。
「こんにちわ、あーちゃん」
僕が笑って挨拶すると、あーちゃんもはにかんだような笑顔を見せて小さな声で
こんにちわと返してきた。
「おにいちゃん、なにしてるの?」
まだまだ完成には程遠い、白いキャンバスの上の鉛筆の線をじっと見つめる
あーちゃんに、僕は説明してあげた。
「お絵描きをしてるんだよ。あの桜の木ね、もうすぐいなくなっちゃうんだ。だから
その前に描いておこうと思って」
途端に、あーちゃんは悲しそうな顔になった。
「さくらのおじーちゃん、いなくなっちゃうの? どうして?」
「えーっと、それはね……」
困ったな、何て説明すれば良いんだろう。こんな小さな子に新しい家を 建てる為だ、
なんて言っても分かるわけないし。すると、どこからかともなく声が聞こえた。
「お休みするんじゃよ」
「え……?」
声のした方を見ると、いつの間にそこにいたのか一人のおじいさんが立っていた。
なんとなく昔話に出てくる、人の良い おじいさんが思い浮かんでくる。あーちゃんが、
そのおじいさんに駆け寄った。
「ねー、おじいちゃん。さくらのおじーちゃんお休みするって、どうして?」
「ほっほっほ、めんこいの〜。娘の幼い時を思い出すなぁ」
おじいさんはあーちゃんに目線をあわせるようにしゃがみこんで、言った。
「あの桜はの、もうずーっと前からあそこに立っておってな、すっかり疲れて
しまったんじゃよ。お嬢ちゃんもずっと立ってると、疲れてくるじゃろ」
 「うん」
「だから、もうお休みするんじゃよ。今までずっとがんばって花を咲かせて
きた桜はの、今度はお空のきれいな所へ行くんじゃ」
「そうなんだ……」
少し寂しそうに俯いたあーちゃん。けれどすぐ振り返って、今度は僕の方へ駆け寄って
きた。
「おにいちゃん、あーちゃんもさくらのおじーちゃんのお絵描きする!」
「うん。分かった」
僕は持ってきていたスケッチブックと色鉛筆を、あーちゃんに渡した。
二つともあーちゃんの小さな手には少し大きかったが、彼女は一生懸命に鉛筆を走らせて
いる。そんな光景を微笑ましいと思いながら、僕も再び桜の木に向き直った。
……と、先刻のおじいさんの事を思い出し、後ろを振り返る。
「おじいさん……」
けれど、彼の姿はどこにも見当たらなかった。一体どこに行って
 しまったんだろう。僕は首をかしげながらも、再びキャンバスに鉛筆を走らせた。
あの不思議なおじいさんが再び姿を現したのは、僕とあーちゃんがさくらの絵を
描き始めてから数日たってからだった。
「はかどってるようですな」
おじいさんは、今度は僕のすぐ隣に現れた。思わず絵筆を落としそうになった僕を見て、
慌てて頭を下げる。
「すまんすまん、驚かせるつもりはなかったんじゃ」
「いえ、大丈夫ですよ」
「あ、おじいちゃんだ!」
真剣な顔でスケッチブックに向かっていたあーちゃんが、色鉛筆を放り投げて
おじいさんに駆け寄った。
「ほっほっほ、こんにちわお嬢ちゃん」
「見てみて、あーちゃんが描いたの!」
「ほーっ」
あーちゃんが持ってきた、お世辞にも上手いとは言えない色鉛筆で描いた絵を見て、
おじいさんは感嘆の声を上げながら目を丸くした。それから絵を手に取ってしげしげと
眺めたあと、あーちゃんの頭を優しく撫でた。
「上手じゃの〜、お嬢ちゃん」
「ほんと!?」
ぱっと目を輝かせるあーちゃんに、おじいさんは何度も頷いた。
「本当だとも。お嬢ちゃんの気持ちがいっぱい込められた、良い絵じゃ」
「わ〜い! ほめられちゃった、あーちゃんのお絵描き、ほめられちゃった!」
スケッチブックを頭上に掲げて、あーちゃんはくるくる踊り出した。まるで桜の
妖精みたいだな、と思って見ていると、おじいさんはまた僕の隣にやってきた。
「お兄さんの絵も、見事なものじゃの」
「ありがとうございます。でも……やっぱり本物にはかないませんよ」
「そんな事はないわい。その絵も、同じくらい輝いておる」
本気で言ってるのかそれとも冗談なのかわからない口調のおじいさんは、ゆっくりと
 桜を見上げた。
「年老いた桜は、いつか消え行く運命にある。そう……今まで、見上げてくれていた
みんなの思い出を、その胸にしまいながらな」
春風が、今が盛りの桜の花を舞い上げる。あーちゃんの喜ぶ声が、聞こえた。
「ワシも同じじゃよ。いろんな思い出が、この胸にたくさんある」
おじいさんの目から、涙が一筋流れていく。彼は慌ててそれを拭うと、照れたように
言った。
「いかんいかん、年をとると涙もろくてなぁ」
「涙を流すのは、恥かしい事じゃないですよ」
僕は、太陽の光を受けて淡く輝く桜を見上げた。「この桜もきっと、泣いてる……」
「そうじゃのう」
この桜にも、いろんな思い出があったに違いない。僕が生まれるずっとずっと前から、
ここにいたのだから。でも、きっと。見上げてきたみんなの顔は 笑顔だったんだろうな。
「思い出という言葉は、良いもんだのう。悲しかった事も楽しかった事も全て、
優しく包んでくれる」
「そうですね」もうすぐいなくなる桜を、僕達は少しでも目に焼き付けるように、
ずっと見上げていた。
そうして、何ヶ月が過ぎた。花の散った頃を見計らって、桜は伐採・撤去され、
変わって新しい家が建てられた。でも、あの桜はまだ生きている。僕の部屋で、
一枚の 絵となって。この絵を見ていると、あの不思議なおじいさんの事を思い出す。
 あれから、彼には会っていない。でも何故か、すぐ側にいる。……そんな気がした。
 
 
 
 
ロビーに戻る
 
[PR]動画